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みえの防災
防災コラム
平成18年10月03日

地震考古学から見た地震災害の歴史

 一四九八(明応七)年九月二〇日の午前八時。激しい地震が三重県を襲い、大津波が押し寄せた。伊勢神宮内宮の『内宮子良館記』には、大湊が壊滅し、伊勢・志摩で多くの人が津波に流されたと書かれている。
 これは、太平洋海底のプレート境界から発生した「明応東海地震」。東海から近畿の広い範囲が被害を受けた。
 この時、南海地震の記録は無いが、四国各地の遺跡発掘調査で貴重な成果が得られた。激しい揺れで、地下水と砂が流れ出す「噴砂」の痕跡が見つかり、遺跡に埋まっていた住居跡や土器の年代から、一五世紀末頃の地震跡とわかった。つまり、明応東海地震は南海地震と連動したのである。
 考古学の遺跡で地震の痕跡を調べるのが「地震考古学」。記録に残されていない地震を発見することが多い。
 東海・東南海・南海地震について調べると、百~二百年の間隔を保ちながら、ほぼ同時に発生し続けてきたと思われるので、次の発生でも連動する可能性が高い。
 明応の地震から少し後の一五八六(天正十三)年一月十八日。中部地域を活断層による大地震(天正地震)が襲った。琵琶湖東岸の長浜城では山内一豊の娘「よね」が圧死し、飛騨白川郷では帰雲城が大規模な地滑りで埋まってしまった。
 伊勢湾西縁の養老・桑名・四日市の各断層の他、岐阜県の阿寺断層などが同時に活動したと考えられる。そして、濃尾平野・琵琶湖沿岸・富山平野などの遺跡で、天正地震の痕跡が発見されている。
 大きな地震は繰り返し発生する。だから、過去の記録や遺跡を用いて「歴史に学ぶ」こともまた、将来の地震に対処する上で重要である。

独立行政法人産業技術総合研究所
主任研究員 寒川 旭

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